| ■ Re[4629][4628][4627]: 遅ればせながら |
| No. | : 4630 [返信] | |
| Name | : かるばどす | |
| Date | : 2008/07/02(Wed) 17:35 | |
| URL | : http://www.calvadoshof,com |
Yangzi さん、こんにちは
今回はツアーすべてに申し込みました。
ひとつだけアメリカ出張と日が1日だけオーバーラップしていて、ちょっと調整中です…(^^;
> 同じ敷地内なので隅田川の花火大会状態にならないかと、少々心配です
なるほど、あの隣の建物でコンサートがあるんですね。
昨年にみたい感じでは、きっと、大丈夫かなと…
上海とか香港のコンサートに使用する会場は、コロシアムでないと大して人を収容出来ないですね…(^^;
> 映画好きの人には面白いかもしれません。
面白そうな場所ですね。
> 余談ですが、浜崎あゆみさんの「距愛」のPVは香港映画の要素(「ウィンター・ソング」も入っていました)をうまく取り入れていて興味深かったです。アジア圏のファンは喜んだと思います。
もともと中国圏向きに作った曲ですので、いろいろとサービス精神が旺盛な結果かもしれませんね。
> 台北の問題は台風です。
10月も終わりですと、台北に台風というのは、いわゆるきまぐれ台風ですね。昨今の気象異常というやつなのでしょうか…。
私は台北についてはロスから直接行く必要があって、手配をしている最中です。チケットだけ自分で手配して、いいものが手に入るなら、ツアーでない方が楽なのですが・・・(^^;
| ■ Re[4628][4627]: 遅ればせながら |
| No. | : 4629 [返信] | |
| Name | : Yangzi | |
| Date | : 2008/07/01(Tue) 13:16 |
かるばどすさん、こんにちは。
>上海に行くとしたら、公式ツアーで行くと思います。
同じ敷地内なので隅田川の花火大会状態にならないかと、少々心配です(開場・開演時間はずらすと思いますが。)
上海では上海影視楽園(Shanghai Film Studio)が機会があれば、行ってみたいと思っています「カンフー・ハッスル」や「ウィンターソング」などの香港映画や、日本のドラマなどが撮影された場所です。映画好きの人には面白いかもしれません。
http://www.sfs-cn.com/images/hsdy/filmpark/index.htm
余談ですが、浜崎あゆみさんの「距愛」のPVは香港映画の要素(「ウィンター・ソング」も入っていました)をうまく取り入れていて興味深かったです。アジア圏のファンは喜んだと思います。
>台北には行きたいかなーと思うのですが
台北の問題は台風です。昨年同じ頃、日本と韓国のグループがコンサートを行った際は、台風の直撃で延期と中止がありました。天候が良いことを祈ります。
では、失礼します。
| ■ Re[4627]: 遅ればせながら |
| No. | : 4628 [返信] | |
| Name | : かるばどす | |
| Date | : 2008/06/30(Mon) 11:49 | |
| URL | : http://www.calvadoshof,com |
こんにちは、yangziさん
ご丁寧にありがとうございます
また、上海の件、ありがとうございます
まだ公式ツアーの案内が来ないので、なにも考えていないのですが、上海に行くとしたら、公式ツアーで行くと思います。前回に、とても良い席だったので、それだけでいいかなと…(^^;
ただ、上海という街、私にはあまり面白くなくて…香港も飽きましたし…台北には行きたいかなーと思うのですが…行ったことがないもので…(^^;
| ■ 遅ればせながら |
| No. | : 4627 [返信] | |
| Name | : Yangzi | |
| Date | : 2008/06/28(Sat) 23:22 |
大変遅れてしまいましたが、10周年おめでとうございます。
先の話になりますが、10月の上海コンサートに公式ツアー以外で参加される場合は、早めにホテルを押さえておくことをお勧めします(同日近くの会場でもう一件、大型コンサートがあります。)
では、失礼します。
| ■ Re[4623][4617][4616][4612][4610][4607][4602][4600][4599][4598][4597][4596][4595][4593][4592][4591][4590][4588][4587][4580][4575][4574][4568][4565][4564][4561][4559]: 謹賀新年・古代史雑感 |
| No. | : 4626 [返信] | |
| Name | : 千折 | |
| Date | : 2008/06/24(Tue) 09:07 |
こんにちは、zorroさん
またまたまたすでに答えを……、って、もういい加減うんざりですが。
#4612に私は「それと三国志は、漢の時代、及び蜀(蜀漢)の部分は長里で書かれているようです。」と書いています。ですからこの夏侯渕についての部分は私の書いた文章の正しさを証明するものでしかありません。それとも夏侯渕が魏の時代の人物だとでも思っているのでしょうか。三国志ファンなら間違えないですね。
>千折さんは「東夷伝」の例しかあげてませんよ。「魏志」の他の部分で使っているかを聞いているんです。
そもそも質問に答えるかどうかはこちらの判断です。答えないからと非難されるいわれはありません。特にzorroさんのようにしつこくすでに回答済みのことを聞いてくる人に対しては。
それに東夷伝だけあげれば十分ではないでしょうか?こちらから聞きますが、何故東夷伝以外の記述が必要なのですか?
東夷伝以外をあげようと思えばあげられますが、それはzorroさんが反論しにくい東夷伝の記述を避けることを手伝うことにしかならないですからね。自分が不利なものこそきちんと向き合うべきでしょうね。
>そもそも短里なんて存在するんですかねぇ? 古田さんの脳内で考え出されたものとしか思えないんですけど…。
なるほど、象牙の塔にお住みになっている偉い方々にとっては、在野の研究者たちの書いたものなど無いも同然であるということがよくわかりますね。こういう傲慢さは反感しかもたらしませんよ。
そういう在野の研究者の本を無視する限り、逆に学会が無視される傾向はどんどん強まるでしょうね。以前、NHKの邪馬台国番組で視聴者の意見を聞いたていましたが、九州説が多数で、関西の人にも九州説支持者が多かったですね。学会が言うことと正反対になっていっているわけです。一般の考えは。
さらに言えば、朝鮮半島以後が6倍に誇張されているという説など、学会の「学者」の「脳内で考え出されたもの」以外の何なのでしょうか?zorroさんが今まで言われたその根拠なるものは、すべて無理矢理な憶測に過ぎません。根拠が無いのならば、自説を無理矢理押し通すためのでっち上げと言われても仕方がないでしょう。中国側はなんと言っているのかという質問は無視している以上、中国側には全く問い合わせていないのでしょうし。
どちらにせよ、在野の学者の書いたものは読まない主義だというのであれば、すれ違うだけですね。もう論争は不能でしょう。私も象牙の塔の住人が書いたものなどに興味はないですし。本気で邪馬台国を探している人が好きですね。学会の人間が本気とは思えないので。今までzorroさんの話につきあって、学会の学者が書いたものを読みたいという気持ちは全く起きませんでしたから。
さて、明帝記の記述がようやく出てきましたね。誰かから教えてもらったのでしょうか、それともがんばって三国志を読んだのでしょうか。私も知っていますよ。ですからすぐに説明できます。これは明帝がこう言ったという記述であって、報告書などの推敲された文章ではありません。つまり明帝が間違ったのです。これは会議中の発言ですから、おそらく実際にこの通りに発言した議事録があったのでしょうね。
短里制はおそらく父の文帝が制定したものでしょうが、まだ時がそれほどたっておらず、長里時代に教育を受けた者が会話中に間違えることはよくあったと思いますね。それにこれは文意から言って、単に「遠い」ということを言いたいだけなので、家臣もあえて修正するまではないと思ったのでしょう。皇帝の言ったことを修正するというのは大変ですしね。長里説をあくまで主張されるならば、正式な報告文などで長里を使ったという証拠が必要ですよ。あればですが。
>「蜀書 後主伝」−中略−立派な脅威じゃないですか?
詔はしょせんこうしたいという希望に過ぎません。その通りになっていたら、蜀が中原を制覇していたでしょうね。はっきり言って蜀には蜀以外の勢力をまとめて打倒「魏」に動かせるだけの人望がないのですね。曹操に勝てなかったのもつまるところは人望で及ばなかったからです。
>この時期は、遼東の公孫淵が裏切って呉に通じそうになっても、それに目をつぶっていたくらい、西方が脅威だったのです。そして、諸葛亮が死ぬ234年まで、この状態が続いたのです。
あれですね。呉の孫建が張昭(呉の家臣団のトップ)の反対を押し切って公孫氏と組もうとして、やっぱり裏切られ、いい年をした皇帝と一の家臣とは思えぬ意地の張り合いをやった件ですね。あれを本気で脅威と思っていたのですか?(まあここまで笑えることを一国の中心人物がやるあたりが呉の人気の理由だろうとは思いますが)
西方については、そもそも諸葛亮孔明を魏が本気で脅威と考えていたかどうか疑問ですね。守備兵千人の陳倉すら落とせないぐらいですからね。後に、陳寿の三国志が世に知られて初めて、中原の大夫は呉蜀という国があったことを知ったとさえ後の世に書かれたことはご存じでしょうか?
実際、辺境の軍に任せておいて大丈夫な程度の「敵」であったというのが実態でしょうね。山賊や水賊のたぐいが、山や川をたてに中央政府に反抗しているといった程度の認識だったと思いますよ。実際その程度のものでしたしね。
仮に脅威であったとしても、陳寿が三国志を書いた頃にはそんなものはもうありません。判っていないかも知れませんが、陳寿の言う脅威とは未来の脅威です、過去ではありません。
>「魏書 明帝紀」に229年「癸卯の日(12月24日)、大月氏国の王、波調が使者をよこして貢物を献上したので、波調を親魏大月氏王に任じた」という記述があります(ちくま学芸文庫1巻の234ページ)。
>だから、彼らの背後にある大月氏国(クシャーナ朝)に働きかけて牽制してもらったのです。その見返りに親魏大月氏王の称号を与えたのです。で、その仲介をしたのが、司馬懿のライバル曹真だったのです。
ライバルだったからどうなのでしょうか?そのライバル関係は司馬仲達の勝利で終わったのは周知であり、三国志が書かれたのはその決着がついたずっと後です。今更そんなことで張り合っても仕方がないでしょう。対立している最中なら自分の手柄を大きく見せようとすることも考えられますが、勝負がついた後に何故、国の大きさを36倍にもするような馬鹿げたことをやる必要があるのでしょうか?常識で言って変でしょう。
また言えるのは、大月氏国(クシャーナ朝)は中央アジアも西より、インドから見て北西の方向に勢力を張る国であって、その富の大半はローマ=インド間の貿易で得たものであり、中国との関係は薄いということです。もちろん、中国との友好に異存があるはずもなく、中国(魏)側も、クシャーナ朝のような西方の大国との友好に異存はありません。しかし余りに距離が遠く、実際に同盟関係でどうこうというようなことは無かったと思えます。
後に唐の時代、玄奘がこのクシャーナ朝よりも中国に近い国に行くのにどれほど苦労したかを考えたら、それはわかるでしょう。
>誇張説についてですが、そもそも陳寿は、倭国が「会稽東冶の東」(今の福建省の東方)にあるという前提で書いているので、誇張することになるのです。
は?そもそも会稽というのは、夏王朝の始祖・禹が死去した土地とされ、だいたい今の浙江省あたりです。範囲が広いときは確かに福建省まで含みましたが。
ともあれ会稽、東冶の東方ということは会稽、東冶あたりまで1万二千里ぐらいということでしょう。万二千里は長里だと5184kmぐらいになります。短里だと864kmぐらいです。
これを洛陽からと仮定して考えると、短里なら会稽までそのくらいの距離ですが、長里だと中国を越え、赤道も越えて、インドネシア、ニューギニアぐらいまで行ってしまいます。邪馬台国はインドネシアだった!!……馬鹿馬鹿しい。
何故、この記述のために誇張することになるのか、理解できないですね。どういう理屈でそうなるのか教えていただきたいものです。
それとこの記述も短里説を証明するものの一つですね。
そもそもこれは非常に大ざっぱな推定です。東方というのも真東という意味ではなく、だいたいその東あたりということです。多少はずれていても気にする必要はありませんね。
>千折さんは、陳寿が倭国は「会稽東冶の東」(今の福建省の東方)と書いていることについての答えを避けているように思えるのですが、どうなんでしょう。
別に避けてなどはいないですね。優先順位が低いから書いていないだけです。北部九州と紀伊半島の南の方は緯度が大体同じなため、この記述からでは九州とも近畿地方ともとれるのであまり重要視しませんね。
zorroさんは、陳寿は東夷などいい加減でいいと考えていると主張しますが、それなら、国の大きさを何十倍にも拡大して超大国に見せかける必要など無いのではないですか?小さな国なら小さな国のままで良いではないですか?どうせどうでも良い国なのだから。言っていることが矛盾しているのに気づかないのでしょうか?
それに、それはzorroさん個人の思い込みによる憶測に過ぎません。私は全く逆に考えますね。
むしろ読み手(中国の士大夫層)に対して、倭人は「蛮族」という印象を与えないために昔の中国の話などを持ち出しているという印象があります。
東夷伝には序文があり、そこに、将来、異民族から礼を教えられることもあり得るといったことが書いてあります。将来、漢民族が異民族から教えられるかもしれないというのは、当時にあってはかなり過激な思想であったと思いますよ。こういう書き方からは異民族を蔑視するべきではないということを読み手に伝えたいという陳寿の意思が感じられます。
入れ墨をした民族というと、現代でも「蛮族」といった印象がありますが(といっても最近は文明人ほどタトゥーをしているという観もありますが)、この時代も同様です。しかし入れ墨は事実だから書かないわけにはいかない。だから昔の中国人も入れ墨をしていた例などを書いたのだと思いますよ。
昔の本と描写が共通だからパクリだ!等と言いますが、この時代の書物は昔の引用がよくされることは読んでいれば判ることです。前例を出すことによって、説得力が増すのですよ。
ふう、結局ほとんどの問いに答えてしまいましたね。おそらくつまらない質問を続けることでこちらが返答疲れして答えなくなるのを待って、自分が勝ったなどと強引にしてしまうつもりではないかと思えますね。
逆にこちらから質問してみましょう。つまり魏志の魏の時代で、長里を使っていると確実に言えるものを出してください。
短里説を、こちらが明確に短里としか考えられないというものを出しているのにも関わらず「短里なんて存在するんですかねぇ? 古田さんの脳内で考え出されたものとしか思えないんですけど…。」などと失礼なことを言うからには出せて当然だと思いますよ。
| ■ Re[4624][4620][4618]: 古代史雑感 & 音楽と聴覚 |
| No. | : 4625 [返信] | |
| Name | : かるばどす | |
| Date | : 2008/06/23(Mon) 05:08 | |
| URL | : http://www.calvadoshof,com |
こんにちは、zerroさん
> いましばらくお許しください。
お気軽に…(^^)
面白いです
あの、拝見していて根本的な話題で ? があるのですが、魏における「里」という単位…もしくはこの時代における「里」という単位は、現代でいうことの「客観的な距離」の意味があったのでしょうか?
測りやすいものについての計測単位は、おそらく私たちと同様にあったと思うのですが、「距離」という概念は、時間、角度などの精密な測定技術がないと発生しないもので、この点を明確に区別することなく解釈をして、現代の感覚で理解することはできないように思います。お二人が書かれている内容を拝見していても、いわゆる距離と、道程を必要に応じて混ぜて書かれているので、私の感覚ですと、うーん…と思います。なぜなら道程であれば距離の何倍にも何十倍の数字になってもおかしくはないからです。しかし、どれくらいの時間をかけて移動する単位として、まぜこぜに議論することも不可能ではない気もします。この場合は、私たちの知る距離とは本質的に異なるものとなります。
名前を忘れましたが古代ギリシャの哲人でエジプトとギリシャでの星の見える角度で地球の大きさを推定していた人がいましたが(地球が球体であるという概念はけっこう昔からありましたので…地平線とか水平線から自然とそう理解している人たちがいました…)、この時代でも、地域によっては距離と道程は別に理解していたのではないでしょうか?
ただ、魏とかはどうなんでしょう…そうした考え方があったのか…史料により大きな違いがあるということは、私たちの今使っている距離の概念ではないような気がしてしまいます。
インターネットで見つけたので、本当の資料かはわからないのですが、後年に書かれた萬暦丙申秋冬通信使一行日本往還日記とうのに、「盖し釜山より対馬島に抵る。水路五百里なり。」と書かれているそうです。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/nituki.htm
この場合の里は、100mということになります…まあ、朝鮮の里が魏の里と同じものかは不明ですけど…。
この資料の真偽は私にはわかりませんが、戦前に日韓を鉄道で結ぶ計画があった際に、釜山-対馬はルートとして選ばれていた最短距離のひとつで、通信使の当時からこの距離が短いことは理解されていたのだと思います。
ですから、海上の距離を比較することはできていたのでしょうが、海に行くとわかりますけど(私の趣味はダイビングもありまして…)、客観的な距離というよりも、移動する時間の感覚でそれは理解することができます。なんか、拝見していて、「里」という単位は、現代とか古代ギリシャのでいういわゆる「距離」という概念ではないような印象をもってしまいました。たとえば、移動に要する時間的な感覚が加味されているとか…です。距離が短くても移動が大変な場合は里は大きな数字になるとか…です。インターネットで見ていたら、海の里と陸の里では、後者の方が長いみたいな記述が多く、そう理解すると、昔の航海技術だとそうかも…なんて、勝手に思いました。そうすると、時代とともに里という単位は長くなることになりますね…
ある程度感覚的な意味というか計時的な意味というか、移動の容易性を加味している単位であるとすると、里という単位と、水行○日…という記述が混在していたり、ひょっとしたら「里」というものが記述によって違っていることも、ちっともおかしくないような気がします。
また、移動手段の能力が限られている時代であれば、かえって移動の効率が距離に含まれている方が、いろいろな意味で合理的です。移動に要する期間が想定できるからです。現代の距離の概念では、移動に要する期間は想像できません。
まあ、こんなこと書くと議論が成立しないように思われるかもしれませんが、昔の資料を見ると、距離や計測単位、数字の概念には歴史的変異があるので、あまり今の感覚で議論してもなあ…と、ちょっと感じてしまいました。
まあ、とりとめもない感想ですけど…。
| ■ Re[4620][4618]: 古代史雑感 & 音楽と聴覚 |
| No. | : 4624 [返信] | |
| Name | : zorro | |
| Date | : 2008/06/22(Sun) 03:54 |
かるばどすさん
勝手にやってきて、こんな論争をしかけたりして、申し訳ありません。
「こだわり」が強い性分なのです。
いましばらくお許しください。
| ■ Re[4617][4616][4612][4610][4607][4602][4600][4599][4598][4597][4596][4595][4593][4592][4591][4590][4588][4587][4580][4575][4574][4568][4565][4564][4561][4559]: 謹賀新年・古代史雑感 |
| No. | : 4623 [返信] | |
| Name | : zorro | |
| Date | : 2008/06/22(Sun) 03:49 |
千折さん
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またまたすでに答えを書いていることへの質問ですね。どういうつもりなのでしょうか?以前の物に対しては知っていた等と今更言い出しますし。こういうことをされると、こちらが苛立って失言するのを待っているのではないかという感じがしてしまいますね。
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千折さんは「東夷伝」の例しかあげてませんよ。「魏志」の他の部分で使っているかを聞いているんです。そもそも短里なんて存在するんですかねぇ? 古田さんの脳内で考え出されたものとしか思えないんですけど…。
長里を使っている例は、「魏書 明帝紀」に「帝曰く、四千里征伐、奇を用ふと云ふと雖も、亦当に力に任ずべし。当に稍役費を計るべからず」という文があります。
これは、遼東で反乱をおこした公孫淵を鎮圧するために出征する、行軍の距離を指しています。
魏の都・洛陽と北京の直線距離は698km、北京と遼東(現在の遼陽市)の直線距離は703kmで、計1401kmです。これを長里0.432kmで割ると、3243里となります。道が曲がりくねっていることを考えると、4000里に近似します。
また、「魏書 夏侯渕伝」に「渕曰く、公は■*1に在り、反復するに四千里なり。報ずる比、叙等必ず敗れん」という文があります。
これは、■*2山で蜀の馬超に包囲された姜叙を救うために、渕以下の将軍が軍議を行い、■*1にいる太祖(曹操)の許可を得て救軍を派遣すべきか否かを謀り、太祖と連絡をとるために四千里を往復すると、軍機を逸してしまうので、許可を得ないまま出発する話です。
■*1のあった河北省安陽市から洛陽までの直線距離は245km、洛陽から長安のあった陜西省西安市までの直線距離は325km、計570kmです。この2倍は1140kmで、長里0.432kmで割ると、2639里となります。さっきよりかなり短いですけど、桁がちがうという数字ではありません。
*1 「業」の右に「おおざと」を書く。
*2 「示」の右に「おおざと」を書く。
このように長里が使われています。
☆ ☆
>また、三国志には西域伝はありません。現在載っている物は裴松之注です。
>ですから、大月氏国と比較してどうのなどはあり得ません。
「魏書 明帝紀」に229年「癸卯の日(12月24日)、大月氏国の王、波調が使者をよこして貢物を献上したので、波調を親魏大月氏王に任じた」という記述があります(ちくま学芸文庫1巻の234ページ)。
で、「蜀書 後主伝」にある裴松之の注にある劉禅の詔のなかに、227年「涼州にいる諸国の王はそれぞれ月支・康居の蛮族支富・康植ら二十余人を派遣して指図を受けさせ、大軍が北方に出陣したときには、兵馬を率い、戈をふるって先駆けせんと望んでいる」とあります(同5巻78ページ)。ちなみに、この元ネタは陳寿自らが編纂した『諸葛亮集』です。涼州の王たちが、「西戎」を動員して、蜀の北伐の先鋒を務めるというわけです。立派な脅威じゃないですか?
この時期は、遼東の公孫淵が裏切って呉に通じそうになっても、それに目をつぶっていたくらい、西方が脅威だったのです。そして、諸葛亮が死ぬ234年まで、この状態が続いたのです。
だから、彼らの背後にある大月氏国(クシャーナ朝)に働きかけて牽制してもらったのです。その見返りに親魏大月氏王の称号を与えたのです。で、その仲介をしたのが、司馬懿のライバル曹真だったのです。
☆ ☆
誇張説についてですが、そもそも陳寿は、倭国が「会稽東冶の東」(今の福建省の東方)にあるという前提で書いているので、誇張することになるのです。
「陳寿という人は、言葉の使い方や原資料の取り扱いについて極めて厳格なことで評価が高いのですよ」と言っても、中国の知識人ですから、当時の知識人の作法にしたがえば、こう書くことになるのです。
前に引用した『漢書』の「民は皆布を服すること単被の如く、中央を穿ちて貫頭と為す。男子は耕農し、禾稲紵麻を種え、女子は桑蚕織績す。馬と虎と亡(な)く、民に五畜あり。山に塵■*2(しゅけい)多し。兵は即ち矛、盾、刀、木弓、弩、竹矢、或いは骨もて鏃を作る。武帝元封元年、略して以て■*3耳(たんじ)、朱崖(しゅがい)郡と為す」にある■*3耳、朱崖は、海南島のことでした。陳寿は、これをそのまま引用して「倭国条」を記述し、「■*3耳、朱崖と同じ」なんて書いてます。中国の知識人にとって「東夷」なんてその程度のものなのです。
*2「鹿」の下に「京」と書く。
*3「にんべん」の右に「・」と書く。
千折さんは、陳寿が倭国は「会稽東冶の東」(今の福建省の東方)と書いていることについての答えを避けているように思えるのですが、どうなんでしょう。
| ■ Re[4619][4615]: ごぶさたしてます |
| No. | : 4622 [返信] | |
| Name | : K&T | |
| Date | : 2008/06/20(Fri) 23:48 |
おかえりなさい。
お仕事ですが、旅行記のように楽しく読んでいました。
先週、東京に行った際にうな鐵行ってきました。
串がどれもおいしかった〜〜〜。たたきも良かったです。
うな重まではたどり着けなかったので、ぜひ次回に。
M8は電池の不良と言う事で、電池が新品になって帰ってきました。
で、今日使ってみると・・・やっぱり何となく好きなんですよねぇ。
写る画像が。
先日の結婚式には、ちゃんとD200も持っていけばよかったと後悔しきりです。
NIKONからD700が出る噂もあるので、それを買いたして、D200+M8にしようかと計画中です。
| ■ Re[4620][4618]: 古代史雑感 & 音楽と聴覚 |
| No. | : 4621 [返信] | |
| Name | : 千折 | |
| Date | : 2008/06/20(Fri) 19:46 |
こんばんは、かるばどすさん。
RESありがとうございます。
水上での距離を正確に測る方法はこの時代は無いのですね。クロノメーターや六分儀はもとより羅針盤すら無い時代ですから。三角測量もないですし。海岸沿いを行く場合は、陸上を歩いて測定した数字が使えますから、それなりに信用できますが(もちろんそれは以前に歩いて測定していればですが)、海を渡る場合はそういう方法は使えませんから。
それで極めて大ざっぱに朝出て夕方までに着けば「千里」ということにしていたという話を以前聞いたことがあります。確かにそういう方法でしか計れないでしょうね。誤差は十割以上行くかも知れないですね。
特に朝鮮海峡は対馬海流の影響で、それに逆らいがちに進むことになりますしね。
おそらくこの時代、朝鮮海峡にこぎ出すのはかなりの冒険だったと思いますよ。倭人にとっても航海は危険だったようですし。特に魏の船乗りにとってはですね。呉の船乗りは少なくとも長江の上ならばベテランですが。魏は陸軍国ですし。東夷伝に黄海を越えて水路、帯方郡に攻め込み帯方郡を落としたと記載されていますが、黄海と玄界灘では海の荒さがかなり違いますし。
おそらく朝鮮半島南端から、朝に対馬を見ながらこぎ出して(もちろん風が良ければ帆走もしたでしょうが)必死にこいで、ようやく対馬に到着し、そこで1〜2日休んで疲労を回復させ、そして対馬の海岸沿いに南に下って、対馬の南端まで行き、それからまた休んで今度は壱岐に向かってこぎ出して、といった具合だったのではないでしょうか。
松浦半島に着いたときには疲労困憊していたと思いますね。
よく、何故、そのまま直接船で伊都国まで行かなかったのか?という疑問を出す人がいますが、この時代、知らない海を行くのはかなり危険な仕事であることは確かですから、陸をいけるのなら陸を行って当然と思いますよ。特にかなり歓迎されたはずですから、当然荷物やらは倭側が運んでくれたでしょうし、人間も輿に乗ったのではないですか?
それとこの海峡の距離がかなりいい加減なのを理由に陸上の距離までいい加減だと主張する人がいるのですが、海と陸を同一に考えるというのはそれだけで机上の空論だと言わざるを得ないですね。
あと、水行20日というのは投馬国までの距離ですが、これは文字通り船で行ったということなのでしょうね。実距離が書いていないのは未測定ということだと思いますね。とは言っても倭は推定一周五千里ぐらいと書いてありますから、大ざっぱに推測できるぐらいには調べていたように思います。当たらざるといえど遠からずといったところですから。
投馬国というのはつま国と読むという説を読んだことがあります。根拠は知りませんが。ともかくつま国なら薩摩(さつま)ではないかと思えます。で、投馬国に行くには途中に狗奴国があるため陸路が使えず、水路を使ったと思えます。
問題なのはどこから20日かですが、これは目的地である女王国から20日であろうと今のところ私は思っています。20日もかかるのか?と言われそうですが、海岸の様子などを調べたり、休み休み行ったなら、20日ぐらいはかかるでしょうね。しかし、その旅は、女王国への旅とはまた別なのであまり重要視する必要はないと思いますね。
>伝説のムー大陸とか主張する人
ははは、いますよ、それ。大概の説はあるという感じですね。まあ考えてみれば、学会自体が、距離も方角も適当に変えているのだから、誰でも自分の好きなところに勝手に変えてしまえますねえ。学会イチオシ説自体がトンデモ説なのですから、ありとあらゆるトンデモ説がありえますね。
余談ですが、私のかかりつけの医師の所に先日行ったのですが、そこでちょっと邪馬台国について話すと、その医師の患者の中に、邪馬台国関係の発掘をやっている人がいるのだそうです。そしてその人の言うには、糸島で発掘された大事な発掘品を関西の某大の者が勝手に持って行ってしまって返さないというのですね。証拠隠匿する気だな、と思いましたね。まあそう聞いただけですが、今までの話からいかにもありそうと思ってしまいました。